●有料     ●交通:近鉄西ノ京駅下車すぐ

和銅3年(710年・奈良時代初期)元明天皇によって都が、飛鳥の藤原京から奈良の平城京に移されました。その後、8代の天皇74年間、わが国の都として栄えました。平城京は、道を碁盤の目のように整然と並べられ、中央の北に宮殿平城宮が造られました。築地塀に囲まれた平城宮内には、天皇の住居の内裏、政治や儀式を行う大極殿や朝堂院、朝集殿などがあり、数千人の役人が働いていたといわれています。そのうち、東朝集殿は、いまでも唐招提寺の講堂として残っています。しかし、延暦3年(784年・奈良時代末期)に都が京都の長岡京に移り、続いて平安京に移ってから、平城京は急に衰退し、田園風景に変わってしまいました。

明治32年(1899年)奈良県技師の関野貞氏が、奈良西郊に「大黒の芝」とよばれる小高い草地を知り、「ダイコク」から「大極」を連想。調査が開始され、翌年平城宮跡発見が公表されました。大正10年(1921年)には国の史跡に指定され、昭和34年(1959年)からは、奈良文化財研究所が本格的に調査をすすめ、日本ではじめての木簡が見つかるなど、新たな歴史が次々と発見されています。

平城宮跡は世界にもない地下遺構、歴史の宝庫であることが明らかになりました。

いまでは、朱雀門、東院庭園などが復元され、建物の柱跡にはツゲの木が植えられ、華やかな天平文化が花開いた平城京の宮殿の姿を想像できます。また、平成22年(2010年)の遷都1300年にあわせて第一次大極殿が復元され、朱雀門とともに、朱の色も鮮やかに平城宮跡の空に美しく輝いています。

●交通:JR・近鉄奈良駅よりバス「二条大路南四丁目」下車 徒歩5分

朱雀大路の北にあり、平城宮の正門として、外国の使節の出迎えなどに使われたのが朱雀門です。国を代表する建物として、豪華さ、壮大さを誇っていたと思われます。いまある朱雀門は、平成10年(1998年)に完成しました。東西約25メートル、南北約10メートル、高さ約20メートル、18本の直径70センチメートルの柱、朱色に塗られた入母屋二層構造で、どっしりとした姿は長年の調査と研究により、復元されたものです。※観光バス専用無料駐車場あり。

●交通:JR・近鉄奈良駅よりバス「二条大路南一丁目」下車 徒歩10分

平城宮の東側に張り出した東院跡にある東院庭園は、平成10年(1998年)に復元されました。広い庭園の中央にはS字形の池があり、築山や中島など和風の特徴をもち、日本庭園の原点といわれています。池の西側の開放的な正殿は、天皇や貴族が宴会や儀式を行ったところ。奈良時代の華やかで優雅な宮廷の人々と同じ風景を体験できます。

●交通:〔平城宮跡資料館〕JR・近鉄奈良駅よりバス「二条町」下車〔遺構展示館〕JR・近鉄奈良駅よりバス「平城宮跡」下車

平城宮跡資料館では、奈良文化財研究所の長年の発掘調査で出土した多数の木簡、貨幣、瓦、土器など貴重な出土品や平城宮の建物の模型、発掘の歴史などをわかりやすく展示しています。遺構展示館では、柱穴や溝などが発掘されたままの状態で保存・公開しています。

中央集権を確立した平城京

和銅3年(710年・奈良時代初期)、日本の政治の中心にふさわしい都として造られた平城京。都の真ん中には南北にはしる幅75メートルの朱雀大路が造られ、東側が左京、西側が右京と呼ばれました。また左京には、突き出たような外京が造られ、いまの奈良市の中心街は、この外京にあります。京内は、碁盤の目のように通りが規則正しく整えられ、南北約5km、東西6kmもの広さがありました。平城京の造営には、日本各地から多くの人を総動員して、台地を削り、低地を埋め、古墳をつぶして造られました。しかし、仕事がきつく、故郷の妻や子供が心配で、逃げる者も多かったと「続日本紀」に書かれています。平城宮跡を見学するとき、貴族たちの華やかな天平文化と、それを支えていた働く人の姿を合わせて、思い浮かべてください。

■平城京条坊図

平城京は、朱雀大路を中心に、大路・小路で碁盤の目に区切られています。南北方向には、左京と右京に一坊から四坊の大路、外京に五坊から七坊の大路、東西方向には一条から九条までの大路がそれぞれ約530m間隔につくられていました。

奈良時代を語る木簡

平城宮跡から発掘された数万点の木簡。幅数センチメートル、長さ約30センチメートルの木の札には、全国から運ばれた税の品物、建設材料の買い入れや支払記録、役人の勤務成績などが墨で書かれていて、奈良時代の人々の生活がわかる重要な史料です。当時は紙が貴重品であったため、役所では木簡が使われ、書き間違ったときは、小刀で木を削っていました。