聖武天皇の招きに応じて、多くの苦難の末に来日した唐の高僧の鑑真和上によって天平宝字3年(759年・奈良時代中期)に建てられた寺院です。いまでも境内には、鴟尾をのせた瓦屋根の金堂、平城宮から移された講堂、校倉造の宝蔵などの建物が奈良時代の姿をとどめています。また天平時代の仏像なども多く残されていて、国宝、重要文化財に指定されています。
昭和35年(1960年)創建当時の場所に復元されました。門には、孝謙天皇直筆と伝えられる額の模作が掲げられています。
南大門を入ると正面にあり、寄棟造で屋根の両側には鴟尾が載せられ、向かって左側は、創建当時のものでした。しかし、平成21年(2009年)完了の大修理で新しい鴟尾に代えられています。南面の吹き放ちに並ぶ8本の柱は、光と影の美しいコントラストをつくっています。金堂の堂々としたその姿は、奈良時代の和様建築をいまに伝える貴重なものです。堂内には、中央に修行の寺にふさわしい厳しい顔の盧舎那仏坐像、左には高さ5・36メートルで最古最大の千手観音立像、右にはどっしりとした薬師如来立像など国宝の仏像が安置されています。
平城宮の東朝集殿を移し講堂にしたもので、いまに残る唯一の平城宮の建物です。移築したときに、切妻造から入母屋造にし、天井を張り、窓や出入口などを設けていますが、宮殿の建物の美しさを偲ぶことができます。堂内には、鎌倉時代につくられた、くっきりとした目鼻立ちの重要文化財弥勒仏坐像があります。
鑑真和上が唐から持ってきた、仏舎利(釈迦の骨)を納めたので、舎利殿とも呼ばれています。有名な行事の「うちわまき」は、この鼓楼で5月19日に行われます。
ともに校倉造の建物で北が宝蔵、南が経蔵です。経蔵は、唐招提寺ができる前の、新田部親王の家の蔵を改造したものといわれ、東大寺正倉院より古いと考えられています。
建物は、慶安3年(1650年・江戸時代前期)に再建された興福寺旧一乗院の建物を、昭和37~39年(1962~1964年)にかけて移築したものです。国宝鑑真和上坐像が安置されています。春と秋に公開され、眼を閉じ、高僧の雰囲気をあますことなく伝えています。
もとは僧坊でしたが、南半分が鼓楼を礼拝するための礼室に改造されました。清凉寺式釈迦如来立像を安置しています。
昭和45年(1970年)に校倉造りを真似て建てられた収蔵殿です。如来形立像をはじめ、天平時代に造られながら天平様とはことなる、唐招提寺様の仏像、鑑真和上の渡航を描いた東征絵巻などが保管されています。
ギリシア神殿と同じ形の柱
唐招提寺の金堂の姿を印象づける8本の柱。よく見ると、柱の中央が上下にくらべ少しふくらんでいます。これはエンタシスといい、ギリシアやローマの神殿の柱と同じ形なのです。唐より伝えられたのか、日本で考えられたのかわかりませんが、柱を美しく見せようとする心はいっしょなのでしょう。
孝謙天皇(こうけんてんのう)
養老2年~神護景雲4年(718~770年)聖武天皇の皇女、母は光明皇后。東大寺大仏の開眼供養を行う。のちの称徳天皇。