興福寺は、和銅3年(710年・奈良時代初期)、中臣(藤原)鎌足の息子で当時の権力者だった藤原不比等が、平城京遷都とともに藤原京の厩坂寺を現在の位置に移したのがはじまりです。その後、天皇や皇后、藤原氏の人々によって、北円堂、東金堂、五重塔などが建てられ、藤原一族の氏寺としておおいに栄えました。治承4年(1180年・平安時代末期)に平氏による南都焼討ちで、ほとんどの建物が焼失しますが、その後復興し大和一国を支配する勢力をもちました。興福寺はいくたびもの大火や明治時代の廃仏毀釈で一時は荒れましたが、現在は「天平の文化空間の再構成」を合言葉に伽藍の整備がすすんでいます。
興福寺に現存する建物は、創建時の姿(和様)が踏襲されているのが特徴で、いまでも天平時代の建物の姿や技術が学べます。
享保2年(1717年・江戸時代中期)に焼失。数年前に整備を終え、基壇の復元表示がされました。毎年5月の第三金・土にはこの場所で薪御能が行われます。
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奈良時代から伝わる興福寺の宝物や、教科書などにのっている旧山田寺の仏頭、思春期の苦悩を表情に浮かべる阿修羅像、力がカラダいっぱいにみなぎる金剛力士像など、国宝の仏像が数多く展示されています。本物の仏像の姿や表情、動きなどが学べる絶好の場所です。
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神亀3年(726年・奈良時代前期)に聖武天皇が、元正天皇の病気回復を願って建てられたといわれています。たびたび火災にあい、いまの建物は、応永22年(1415年・室町時代中期)5度目に再建されたもので、最初の天平時代の和様の姿をいまに伝えています。本尊はおおらかな姿の銅造薬師三尊像ですが、鋭いまなざしの少年のような国宝の木造文殊菩薩坐像も安置されていて、かつては文殊堂とも呼ばれていました。
高さ51メートル、京都の東寺の五重塔に次いで日本で2番目に高い塔です。光明皇后によって天平2年(730年・奈良時代前期)に建てられ、となりの東金堂と同じようにたびたび火災で焼け落ち、その度にもとの形式で建て直されてきました。いまの塔は、応永33年(1426年・室町時代中期)に建てられたもので、奈良のシンボルとして親しまれています。
承元4年(1210年・鎌倉時代初期)のもので、伝統的な「和様」によって再建されました。
弘仁4年(813年・平安時代前期)に建てられたお堂で、いまの建物は寛政元年(1789年・江戸時代)頃に再建された和様建築です。平成8年(1996年)に修理が完了し、朱色が鮮やかなお堂です。
現存する興福寺の建物の中で北円堂とともに最も古いもの。康治2年(1143年・平安時代後期)に建てられましたが、平氏による焼討ちで焼け落ちました。しかし、鎌倉前期に再建。平安時代のうつくしさをいまに伝えている貴重な建物です。
仏道の修行の数を表す五十ニ段
猿沢池の東側から興福寺五重塔へ上がる幅広い石の階段を五十二段といいます。名前のとおり52段あり、仏道の修業の段階を表しているといわれています。
社殿がうしろを向いた采女神社
猿沢池の北西にある采女神社は、帝の愛が薄れたことをなげき、猿沢池に、入水した采女(宮中に仕えた美女のこと)をまつる神社です。はじめ社殿は、池に向いて建てられていましたが、自分が入水した池を見るに忍びなく、一夜にして池に背を向けたといわれています。
藤原鎌足(ふじわらのかまたり)
推古22年〜天智8年(614〜669)藤原氏の祖。中臣鎌足ともいう。後に天智天皇となる中大兄皇子とともに、大化改新(645)に協力し蘇我氏を倒す。天智天皇より藤原姓を賜る。
藤原不比等(ふじわらのふひと)
斉明5年〜養老4年(659〜720)鎌足を父に持つ。大宝律令の撰修など、律令政治の実施に尽力する。藤原氏繁栄の基礎を築いた。